降っても晴れても、生きてゆく

<本日のBGM:Perer Bernstein with Tilden Webb Trio ”Come Rain Or Come Shine” >

こんにちは、SOCIAL JAM SESSIONの山本です。
一年前の8月15日は、私の親友の命日です。気づけばあっという間に一年が過ぎましたが、彼のことを忘れたことは一日もありません。私がSOCIAL JAM SESSIONを始めた原点です。

親友の生き方が好きだった

彼は私が人生で出会った中で、一番優しい人でした。大学1年でたまたま一緒のクラスという縁から、授業はほぼほぼ一緒に受けていましたし、よく食事や旅行もしていましたが、彼が怒っている場面など全く記憶にありません。

それでいて、志まっすぐブレない人でした。新卒で某メーカーに就職してからも、「自分は手触り感のあるものづくりをしたい」と振り返り、しばららくして農業を志そうと北海道に単身修業で乗り込みました。そして、5年ほど前に地元に帰り独立、自分の畑を耕し、マルシェなどで接客しながら自身のつくった野菜を届けていました。

私は、北海道を含めて彼の行くところに度々赴いて遊んだり、彼の独立後は家族を連れて畑を訪れ、とうもろこし刈りをさせてもらいました。また、私が通える場所で開かれていた月一度のマルシェでは、できる限り一緒に接客に立っていました。

本当に役に立てていたのかはわかりません。対価をもらっていたわけではありません。単純に、彼と話していたかった。一緒に彼の野菜をお客様に届けたかった。彼の野菜に対する想いを聞き、その想いを受けて私自身も彼の野菜を愉しむ。全く野菜に関係ない他愛ない話もしながら、お客様が訪れるまでの時間を潰す。ときには未来の話をし、彼が目指す農家としての理想を受け止める。そして、その理想や野菜の美味しさを聞いたお客様が、嬉しそうに彼の野菜を買い、また一月後に「美味しかった」とまた来店してくれる姿がとても嬉しかった。

私は、彼の生き方が好きでした。

「人生100年時代」の生き方

「人生は短い」ということを、私は分かった「つもり」でいました。それでも、忙しい日常と「それでもきっと来るであろう明日」に甘んじ、私は自分の生き方を定めることを後回しにしていました。

「人生100年時代」やVUCAと言われる昨今ですが、人間の平均的な寿命が延びたというだけであって、この世界はいつ何が起こるかわからない、いつ自分の寿命が終わるかわからないという真理は、何一つ変わっていません。

人間に、神様も含めて誰かから与えられた天命や使命、「生まれてきた理由」は存在しません。そんなものがあるのなら、私の親友は今も生きているし、天災や戦争、病気などで人の命は終わりません。

だからこそ今、自分が心からの望みを叶えること、会いたい人に会うこと、自分にとっての大切をしっかり握って手放さないことを、ためらってはいけません。社会は、究極的には人それぞれを歯車と見立てるからこそ成立しています(それで正しいとも思っています)。この世界の中で、自分の人生を一番に考える権利と義務がある人は、自分しかいないのです。

ただ、矛盾することを言っているように聞こえるかもしれませんが、「生き急ぐ」ことは違うと考えています。望む結果や夢のために邁進し、仮にそれが運良く早期に実現できたとき、(私も経験がありますが)シンプルに「燃え尽き症候群」に陥ります。かつ、「生きる」ということを自分という存在だけで完結させようとしてしまっているから「生き急ぐ」という発想になる。人間社会は、生命の根源にもかかわることですが、誰かに頼り頼られ、大切に思い思われ、さらにはそれらが世代を超えるからこそ繁栄しています。

「生きる」とは、誰かからの希望を受け取り、誰かに希望を託すこと。その覚悟。私はそう信じています。

自分の寿命がいつ終わるかはわかりませんが、共通して明確なのは「自分の人生は自分が主導権を持つ」ことです。

目指す未来にこだわりながらも、トライアンドエラーを楽しむ

一生懸命生きるということは、夢や目標など、自分が目指す未来や結果に向かって一直線になることに近いかと思います。その未来が具体的な何かなのか、ありたい状態を示すのかは人それぞれです。

でも、どんなに正しい努力をしても、それが叶わないこともある。ふいに、予想もしなかった悲しみがやってくることもある。自分の失敗や行動、あるいは行動しなかったことで後悔することもある。仮にその夢や目標が叶ったとしても、その結果として自分にとって異なる負を招くこともあります。逆も然り。これらを全て回避し、常に毎日充実して幸せであることは不可能です。

結果もまた過程にすぎないのです。

結果を出すことにこだわるのは重要です。そうでなければ、そのために必要な仮説立てもできず、正しい努力もできません。結果が出ることで自信がつき、信頼され、次の目標を目指せるようになります。

ただ私は、この結果を目指すための過程、アクションや出会い、失敗とそこからの復活、それらの繰り返しこそが、何よりも楽しく生きがいなのではないかと考えています。「私はこんな結果を出しました」と言う人より、「私はこういう生き方をしています」と日々向き合っている人に、私は心惹かれます。

「結果も過程のうち」と認識し、トライアンドエラーそのものを楽しめる生き方であれば、ときに辛いことがあっても、自分の人生の主導権を握ったまま生きられるのではないか。

たまたま私にしっくりきたのが、「新規事業」であり「ジャズ」でした。

誰に、どんな希望をつなげたいか


「生きる」ということが「誰かに希望を託すこと」なら、それが社会やまわりから強制されたことでは、誰にも届かない。逆にどんなに小さい挑戦だったとしても、「結果も過程のうち」と捉えて急ぎ過ぎず、自分が主導権を持ち楽しみながら行えたのなら、必ず誰かに届く。

「ジャムセッションする生き方」は、たとえ私の寿命が明日だったとしても100歳だったとしても、親友から受け取った希望をまた誰かに繋ぐための、私の生き方です。

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